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じみ庄三郎チャンネル

北九州への想い

北九州は我が産土 〜アジアのゲートウェイとして帆を張って〜

私は、1945年(昭和20年)11月5日、北九州市小倉北区(旧小倉市)鍛冶町に生まれた。父・政雄は産婦人科医だったが、私が3歳の時に父とは死に別れ、母・禮子の女手一つで育てられた。父が亡くなる数か月前に自宅で撮られた父の膝に抱かれた家族の集合写真を見ると、今でも涙をおさえられない。母は苦労しながら私たち兄弟を育て、兄二人も医師、姉3人も全て医師に嫁いだ医師一家となった。

私は、生粋の小倉っ子である。小・中・高校と少年時代を小倉で送り、日本の4大工業地帯のひとつを占めた北九州市の戦後の経済成長のダイナミズムにあふれた躍動的な雰囲気の中で成長した。同時に空爆を免れた明治以来の商都の文化にも浴した。私の生家は森鷗外の旧居と道を隔てた真ん前にある。「無法松」で知られる太鼓祇園の乱れ打ちにも小さい時から親しんだ。

1983年、38歳で多くの方に支えられ旧福岡4区から衆議院議員初当選した。選挙区は小倉南北区を中心に北九州市の東半分、筑豊・京築地方である。以来、小選挙区(北九州市小倉北区・同南区・門司区)となっても、さらに参院に移り、比例代表区(全国区)となっても、私の「本拠地」は北九州であることは言うまでもない。

国会議員となって25年、私は常に北九州市とともに歩んできたことを誇りに思う。重厚長大の工業都市から、先端技術の研究・開発を進める技術研究都市の建設、エコタウンに環境関連産業を誘致する環境保全都市づくり、アジア大陸への玄関口たる海・陸・空の交通路が集中する国際交通ターミナルの形成、戦前から続く日中経済交流の拠点、など21世紀に翔ぶ北九州市づくりに力を尽くしてきた。

北九州空港 (クリックすると表示されます)

私が長きに渡り尽力させていただいたのは北九州空港の建設開港だ。初当選直後から従来の狭小な空港に替わる空港の新設を求めて奮闘した。とくに、1986年(昭和61年)第5次空港整備計画からはずされそうになった際、時の中曽根首相に直談判して計画に残せたことが記憶に残っている。

さらに、2002年(平成14年)、公共事業の抑制政策で建設資金が不足し2006年度に予定していた開港の遅れは必至といわれた際、予算委与党筆頭理事として、補正予算への計上を政府・国交省に強く働きかけ、ついに当初予算の2倍に当たる100億円の計上に成功したことも記憶に新しい。手前ミソだが、この件で「庄ちゃんの逆転満塁ホームラン」と北九州市民に喜んでいただけたことも懐かしい思い出だ。この予算獲得で建設は遅れを取り戻し、新空港は予定通り2007年3月に開港した。

環境都市北九州 (クリックすると表示されます)

私は医師である。ふるさと北九州市が70年代に市民・行政・企業の緊密な連携によって苛烈な公害被害を克服し、いまや国連から表彰を受けるまでの「環境保全都市」に変貌したことは、大きな誇りである。私の環境政策の原点もここにある。工業都市の高い技術力と人材を活かした環境保全技術を背景にエコ企業集団が成長著しい。中国をはじめとして東南アジア諸国への環境に関する人材や技術の交流・支援はすでに18カ国62都市にのぼる。09年に私は中国北京、唐山で開かれた環境フォーラムに招かれ、基調講演した。「お互いが環境を通じた経済成長という成果を共有することによって、将来に向けて持続的に発展しよう。日本の公害克服経験を共有し協力しよう」これが私の提言だ。中国と日本の環境政策の緊密化は地球の環境保全に欠かせない課題だ。

北九州市はこの協力のリードオフマンとなる資格は十分だ。長く与党の環境基本問題調査会長を務め、環境政策の専門家である私はふるさと・北九州市の世界に開かれた環境保全技術と実績を背景に、いっそう地球温暖化防止をはじめとする環境保全政策の進展に身を捧げる覚悟だ。

田川地区、京築地区 (クリックすると表示されます)

郡部の田川地区、京築地区も私の「第2のふるさと」だ。私の母・禮子は田川市の生まれ。一族は炭鉱経営で財を成した。日本に亡命中の中国革命の父・孫文を迎えたこともある。石炭という近代工業を支えるエネルギー源の産出でアジアの産業革命を伸展させた。

60年代以降のエネルギー革命で、筑豊地域は衰退、地域社会は荒廃した。私は衆院の石炭特別委のメンバーとして、地域の浮揚策に力を尽くした。

行橋市、豊前市を中心とする京築地区も私の「地盤」だ。伝統的な農村地帯だが、ここ20年の発展は目を見張るものがある。北九州のベッドタウンとして、住宅化する一方、日産の自動車工場の進出など、自動車産業の進出が著しい。

行橋市のJR日豊線の駅周辺の高架事業にも尽力した。

豊前地区は私の父の出身地・大分県中津市と山国川を隔てた農村地帯だ。過疎地としての苦労や心情を私もよく判り、振興策に力を注いでいる。

東九州自動車道建設促進議員連盟の会長を務めたこともある。遅れがちの東九州振興のカンフル剤としての同道路の建設促進に力を尽くしている。

北九州は明治以来、航路、港湾、陸路とも九州のみならず日本の「要衝」にある。陸・海・空の諸施設を整備し、東アジアへの「玄関口」の地位を確立する、これが私の北九州市の21世紀の大構想だ。北九州新空港は、海上空港として24時間運用が可能な空港として、現在順調に運営されている。この空港にもう一本、4000㍍の滑走路を作り、中国・米国・欧州と直結できる国際空港に発展させるのが私の大きな、そして十分実現可能な「夢」だ。

北九州はまさに時代の先駆者であり、地球の行く末を照らす環境技術の宝庫だ。

地の利を生かし、北九州から発信する情報と人材で世界の行く末を照らす灯台となろう。

良きかな、ふるさと北九州。重工業都市から、環境・高度先端技術都市へ。

人と人とのつながりとその生活を大切にするふるさと北九州。

私はその発展にこれからも政治生活を捧げて行く。

平成22年10月

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